イノベーションの重要性が叫ばれて久しいが,日本でイノベーションの成果としての新しいコンセプトの製品やビジネスモデルが生み出されているか,となるとどうも心もとない。日本社会の中に何かイノベーションを阻むものがあるのではないか,その「何か」とは日本の過去の成功体験であるキャッチアップモデルではないだろうか---といった趣旨の話を最近聞いた。

 松下電器産業(現パナソニック)の副社長だった水野博之氏が,この2月19日に,都内で開かれた「大企業とベンチャーのWIN-WINフォーラム」(主催:経済産業省)というセミナーで行った基調講演の内容である。

「伝道師」の「変化」?

 水野氏は,「マネシタ電器」と揶揄された松下電器にいた経験から,キャッチアップ戦略の重要性を説いてきた(例えばNEブログ仲森コラム)。松下幸之助氏から直接の薫陶を受けた最後の世代で,キャッチアップモデルの伝道師ともいうべき水野氏が今,むしろ逆に,その弊害に目を向けているようだ。筆者はまず,その「変化」に興味を持った。

 水野氏の話を聴くのは久々であったが,テンポよく,ユーモアに富んだ関西風の語り口は健在である。喜寿を超えてなお,大阪電気通信大学副理事長,広島県産業科学技術研究所所長,コナミ取締役,メガチップス取締役など,数々の肩書きをもって活動されている。松下電器時代の技術トップとしての数々の経験と,今でもなお第一線に触れているところからにじみ出る迫力が聴く者の心をとらえる。

 講演は,理学部物理学科の学生だった水野氏が,入社試験までは「松下電器産業」という名前すら知らず,一番の売れ筋商品が電気コタツと聞いて嫌々ながらも生活のために入社したというエピソードから始まった。続いて,この半世紀に中小企業に過ぎなかった同社がなぜこれほどまでの大企業になったのかを明らかにしていく。

松下幸之助氏の「変化」

 これはすでに様々なところでも書かれているが(例えば,先ほどの仲森コラム),松下幸之助氏が若いころもっていた発明家としての趣味趣向を捨てて,キャッチアップ戦略を採用したことが転機だった。松下幸之助氏の「天才」ぶりは,戦前と戦後で質的に変る。戦前は二股ソケットなどを生み出した発明家としての「天才」ぶりだったが,戦後は「選択の名人」としてのそれに変貌を遂げた。水野氏はこう語る。

 「どういうことかといいますと,幸之助さんには,日本国民の所得がある段階に達した時にどの商品をつくって世の中に送り出せば売れるかということを嗅ぎ分ける能力があったということです。だって,欧米には山のようにあったんですから,そういうもの(真似すべきもの)が。所得が上がってきたからそろそろ冷蔵庫が欲しくなるだろうな,だったら冷蔵庫出そうやないか,と。次は白黒テレビだ何だと,新しい商品を陸続として出していったわけです。もう私たちは忙しくて忙しくてしょうがない」

 キャッチアップモデルの誕生である。当時の日本の製造業は,多かれ少なかれキャッチアップ戦略を採用した。中でも松下電器は,松下幸之助氏自身が経営方針として徹底的に推し進めたからこそ,世界的な大企業に成長できたというわけだ。

「キャッチアップの終焉」を語る前に…

 その後,この時期に確立されたキャッチアップモデルの限界が見えてきて,その代わりにイノベーションの重要性が指摘され始める風潮の中でも,水野氏はあえてキャッチアップモデルの重要性を説いてきた。同氏は2005年11月発行の『日経ビズテック』第10号で,「『マネシタ」だからこそ世界企業になれた」という論文を書いた。その中で,「『キャッチアップの終焉』を語る前に,まずは『キャッチアップ自体がきちんとできているのか』と自らに問い掛けてみた方がいい。実態はイノベーションどころかキャッチアップすらまともにできていない企業が目立ちはしないか」と警鐘を鳴らした(関連する以前のコラム)。

 その水野氏が今回の講演では,一転,キャッチアップモデルの限界とイノベーションの重要性を説いたのである。どのような心境の変化なのだろうか,と考え込みながら聴いていると,同氏はキャッチアップされる側であった,80年代から90年代の米国産業界の状況を語り始めた。

 それはもう大変なパニック状態であったらしい。怒涛のように押し寄せる日本製品,大元の技術を創造したにもかかわらずバタバタ倒れる米国企業,一斉に高まる「日本脅威論」…。その象徴としての日米半導体摩擦の交渉にも携わり,90年代には米スタンフォード大学の顧問教授も勤めた水野氏は,その米国の危機感を肌で感じておられたようだ。そして,米国は脅威の正体を確かめようと,国を挙げて日本研究に一斉に取り組んだのである。