現代思想の最前線(東浩紀と辛坊治郎)から

東浩紀の渦状言論 はてな避難版
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090207/1233992298

というわけでこれ以上国債は発行できない、しかし金は欲しい(選挙で勝つために金はばらまきたい)、だから自分たちで紙幣を作ろうって、それがまともな国家のやることでしょうか。定額給付金もバカげてますが、最近の日本はいよいよ正気を失ってきた気がしてならない。

東氏と同じくらい「現代思想の最前線」に立つのがすなふきんさんのところhttp://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20090208/1234089307で紹介されていた辛坊治郎氏の発言。

しまいに「そんなことやってたら国民は税金も払わないでいいと思うようになる。モラルはどうなるんだモラルは!」なんて半切れ状態。そして最後は政府は信用できない、そんな政府に紙幣発行権与えるなんてとんでもない

 この二人に大川興業の総裁を加え、さらに天声人語(先週の火曜日)をトッピングすればすばらしい「最前線」が形成される。

 ところで政府紙幣自身は、今日の下のエントリーでも紹介したフィッシャーの『リフレーションの基礎理論』の中でも33年のニューディール政策の中で採用されたもので、リフレーションの効果を上げたものとして高い評価を与えられている。ちなみに岩井克人氏が政府紙幣をどう評価するかは知らないが、少なくとも岩井氏がかってフィッシャーの見解を丹念におっていたことはよく知られている。またトービンはかって岩井の『不均衡動学』を、フィッシャーの負債デフレ理論とケインズ有効需要理論を継承するものとして高い評価を与えた。そしてトービン自身は、例えば翻訳では『マクロ経済学の再検討』にあるように、このフィッシャー・ケインズ的な伝統から、リフレーション政策(含む政府紙幣)を肯定的に評価した。岩井の不均衡動学(『貨幣論』もその縁戚だろう)はリフレーション理論を肯定することができる理論ではないだろうか。少なくともそう考えた方が僕にはすんなりいくのだが。

 ついでなので岩井氏の理論を簡単にみておこう。トービンと岩井理論の共通点は、それはワルラス的な価格調整が成立しない世界を描いていることにある。例えば、労働市場で超過供給が存在したとして、賃金が伸縮的に調整することで需給が一致するような世界は、現実にはありえない虚構だという見解を両者は持っている。

 むしろ失業が存在するときに賃金が伸縮的に動くとかえって経済の不安定性はましてしまう、とトービンと岩井は考えた。トービンにおけるその理由の一端は、彼の著作『マクロ経済学の再検討』の前半にもあるが、デフレによってフィッシャー流の負債デフレ効果が、実質残高効果を上回ってしまうことから経済変動がかえって激しくなってしまうからだ。いいかえるとデフレによる実質債務の増加によって債務者たちの支出(消費・投資)が抑制されることの方が経済をより深い停滞に陥れると考えたのである。賃金デフレの場合も基本的には同じ効果をもたらす。

 岩井の場合は、東氏が読んだという『貨幣論』にも展開されているが、貨幣経済は基本的にカタストロフィーを秘めていると考えているようだ。例えば岩井は、クヌート・ヴィクセルの理論を踏まえて、市場利子率と自然利子率が少しでも乖離すれば累積過程的にインフレやデフレが亢進していくと考える。ヴィクセルの理論の要旨は拙著の『経済政策を歴史に学ぶ』を読んでいただけると嬉しいが、ここでは超簡単化して説明すれば、自然利子率は経済の実体をあらわすもの、市場利子率はそのときどきの取引で成立する利子率である、とでも考えておいてもらいたい。そして何かのショック(天変地異から中央銀行の不始末などなんでもいい)でこの両者が離れてしまうと、それがインフレやデフレをもたらすことになる。しかも両者は自動的に一致することはなく、不可逆的=累積的にインフレとデフレがすすむ。そしてインフレのすすんだ先がハイパーインフレーションであり、デフレのすすむ先が大恐慌である。

 『貨幣論』は、この貨幣経済の根本的な不安定性に注目していた著作だった。岩井でもトービンと同じように、貨幣経済では両者の利子率を一致させる自動的な調整メカニズムは不在である。

 しかし岩井は問う。「だが、現実の経済は失業や緩やかな物価上昇は常に経験しているが、大恐慌やハイパー・インフレーションにみまわれるのは全くの例外的状況にすぎない。それでは、一体何が貨幣経済をその自己破壊性から救っているのだろうか?」(『ヴェニスの商人資本論』217頁)と。

 それはケインズが示したように名目賃金の下方硬直性によって、貨幣経済の不安定性は回避されているのだと。名目賃金の下方硬直性こそ「現実の貨幣経済の錨」なのだ。

 ここでトービンと岩井の関連がさらに強まるのがわかるだろう。両者ともマクロ的な価格調整を否定しているだけではなく、さらに価格・賃金の伸縮性自体が経済をより一層の不安定性にさらすと考えていたわけである。

 そのためトービンも岩井も同じような処方箋に至る。それはリフレーションである。トービンの方は明示的にこの言葉を使用している。岩井も以下の引用をみればその発想の根幹がリフレーション支持であることわかる。


「実は、このような貨幣賃金の下方硬直性のもとでは、もし仮に均衡破壊的な累積過程をひきおこさずに貨幣賃金の上昇率を平均的に引き上げることができるならば、労働市場を襲う攪乱要因によって絶えず必然化される企業間の相対賃金の調整をより円滑にし、市場全体の失業率を長期のマクロ的均衡においても引き下げることができる 略 すなわち、貨幣賃金の下方硬直性のもとでは、ある一定の賃金インフレは、相対賃金体系の調整のための潤滑油の働きをする。そのため賃金インフレ率の上昇は長期においても失業率を減少させる効果をも(つ)」

 長期においてもリフレ政策(ここでは賃金リフレ)が効果をもつということで岩井氏は明らかにいまの主流経済学(ニューケインジアン)と別れる。しかしいまはそれ自体が問題ではない。東氏が岩井の『貨幣論』を読んで政府通貨がめちゃめちゃな政策に思える、といった点が問題だ。ここまで読んでわかったように、岩井氏において政府紙幣がめちゃめちゃ=貨幣経済を不安定化する という可能性があるのは、自然利子率と市場利子率の離反を加速化させるときだけである。

 この加速化はやがて貨幣経済の錨を破壊してしまうことで大恐慌ハイパーインフレに至るのである。つまり言い方をかえれば、東氏の「というわけでこれ以上国債は発行できない、しかし金は欲しい(選挙で勝つために金はばらまきたい)、だから自分たちで紙幣を作ろうって」理由が、『貨幣論』から導かれる貨幣経済の不安定性をもたらすものではない。それはあまりにナイーブすぎる(もっといえば辛坊治郎的あるいは大川興業総裁すぎる)。ある意味でポスト岩井の世代として岩井の思想的な遺産を継承するのに失敗している(とかそんな継承どうでもいいけど本当は)。

 さて政府紙幣自体はもちろん賃金の下方硬直性を破壊することはしない(もちろん自然利子率と市場利子率の乖離を加速化させるのではなく、インフレとインフレ期待に作用することで両者の乖離を縮小する)。賃金インフレをもたらすリフレ政策である。フィッシャーがこれを肯定し、またトービンもそれを基本的に支持していることはみた。岩井氏がどう判断するかは知らないが、それでも原則的に否定するのは難しい政策だろう(継続して書いているうちに、はてブに書かれたが、稲葉さんの『経済学という教養』も参照のこと)。

 今日の世界同時恐慌への岩井氏の見解もすべて貨幣経済の錨を探すことにその処方箋は尽きていると思う。もちろん岩井案に対しては僕は否定的なんだけどもそれはまた別な話である。

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

マクロ経済学の再検討―国債累積と合理的期待

マクロ経済学の再検討―国債累積と合理的期待

東京へのオリンピック誘致と東京都紙幣


 本日の朝日新聞一面にコメント。


 例えば、都がオリンピックの需要誘発効果をそんなに期待したいのならば(つまり景気刺激をそんなに重視するならば)、オリンピックの採択の結果を待たないで、景気刺激の観点からは、今度の議会にアービング・フィッシャー流の日付け貨幣(Stamp Script)でも提案したらどうでしょうか。規模は設計次第ですが、どうせ挑戦精神がないでしょうから(オリンピック精神はあるのでしょうか?)5000億円程度ぐらいでいいでしょう。要するに地方版の政府紙幣です。法的な問題は解決可能でしょう。

 フィッシャーは『リフレーションの基礎理論』(After Reflation,What? の戦前出た邦題)の中にリフレーション政策(不況脱出の需要刺激策)として、地方において当時実験されていた日付け貨幣に注目して次のように書いています。

 以下、昭和9年に出た翻訳(日本評論社、大岩鉱編訳)が手元にあるのでほぼそのまま引用。

 「(取引…田中補)速度を早める目的の為めに最近欧米の或都市では、特にこの目的の為めに考案された新規な形態の通貨を実験している。之は日付貨幣(スタンプ・スクリップ)として知られるものである。都市はその吏員及び主要商人の同意を得て、市の費用及び他の債務(慈善をも含む)の支払いに際してスタンプ・スクリップを発行する。この証券は大抵の場合一ドルの名称を帯びている。都市は一年の期間経過後に、之を法貨と兌換することを承認する。期間中は、この証券は之が受領に同意した市民間に手から手へと転戦する。今その同意条件の一を示すと、水曜日にこのスクリップを手に入れたものは、特別に案出された市発売の2セント印紙を貼付するまでは、之を再び取引に供するを得ない。そしてその年の五十二の水曜日の各々のために、スクリップの裏に印紙貼付のための空白がある、前水曜日の印紙の貼付を遅滞しておれば、このスタンプ・スクリップは、いかなる場合を問わず、譲渡され得ない。それ故に何人も毎週水曜日の前にそのスタンプ・スクリップを手放す事を急ぎ、以って印紙代を避けようとする」。


「その年の終りには、市はその五十二印紙の売上金を使用してスタンプ・スクリップを償却する。各1ドルのスタンプ・スクリップに対する総印紙は1ドル4セントに達する。期間中、印紙は遅滞に対する罰金の役割を果たしている。印紙はまた退蔵に対する一種の印紙税ともなっているのであるが、一個人の出資は些細である。なんとなれば、証券が迅速に転々すればするほど、1ドル4千との印紙税が割り当てられる所持人の頭数は増加するからである」。

 これを読むとばら撒きよりも希望者にスタンプ・スクリップを配るほうがいいでしょう。日本だと額面は1万円でいいでしょうか。投資にも使える設計だとすれば高額のものを用意してもいいのではないでしょうか。

スタンプ・スクリップは、その超速度のゆえに、少額に限って発行される。スタンプ・スクリップは消費に使われるとともに、もちろん投資され、また銀行に預けられる」

 「これは最初不景気における一方便として用いられた、そしてその究極の有用性は、その量や、速度にすらあるのではなく、むしろ死せる信用通貨に及ぼす究極的効果にあるのである。これは、いわば、信用通貨のポンプに「迎え水」を送るのである。というのは、不況時においては、事業家は銀行に眷顧する事を恐れるようになる、しかし彼らは顧客がやってくるのをみれば、銀行に走るように元気づけられ、或いは強制さえもされる、かくして国内の信用通貨と正常速度とを回復する、スクリップの役割は事業家に、顧客のやってくる光景をみせてやる事である」

「地方的に(そして正しく)用いられるならば、スタンプ・スクリップは一定の制限をもつが、試験済みの有用性をもっている。それは地方の取引量を増大する。しかし物価水準に影響する(=デフレからインフレにする…田中補)ためには、それは連邦政府に採用され、暫定的法貨の地位にまで昇格されねばならない」。

 このフイッシャーの『リフレーションの基礎理論』はリフレのアイディアと当時のルーズベルトの33年当時の政策評価などが連動していて、非常に有益で実践的な本ですね。古書で手にはいりやすいほうだと思うので見かけたら入手をおススメします。

書評:『服従の心理』

週刊東洋経済』に掲載されたもの。これを書いたときはインフルエンザA型のために熱が39度近くあり、正直フラフラ。熱のためか実力かはわからないが、あまりうまく書けなかった。

書評:『服従の心理』

 家庭では優しく知的な人が、組織の命令によって時には大量虐殺にまで手を染めてしまうのはなぜか? 強制収容所で大量虐殺を指揮したナチス高官アイヒマンが、実は凡庸な官吏にすぎなかったことは世間に衝撃を与えた。ミルグラムは誰でもが権威に服従して、悪の怪物のようになってしまうことを、心理学の実験として論証しようとした。俗に「アイヒマン実験」という。この実験は、被験者がある人物に強い電撃を、実験者の命令をうけて与え続けるものである。ほとんどの被験者は、電撃を加える相手が苦痛を訴え、中止を求めても、権威(実験者)の命令にしたがって最高の電圧を与えてしまうことがわかった。電撃を加える方は、命令にしたがって単に義務を履行しているだけであり、良心的な葛藤はあまり観測されない。むしろ権威の期待に応えているという一種の満足感を被験者は抱いている、とミルグラムは指摘している。権威の力によって人間の感情の方向まで変化することを示していて、実に恐ろしい書物である。
なぜ有能な人々が集まる組織が、ときには信じられないほどの破滅的行為をしてしまうかも本書からわかる。日本の英知を結集しているはずのエリート官僚たちが、長期的には破綻するにきまっているのに、今日もせっせと財政赤字の構築に余念がない。官僚たちの多くは前任者の仕事を変更しないことをもって責務と考えている。これもまた権威への服従ゆえの非合理的な行為である。本書を読むと、服従の心理を克服する処方箋には、当事者たちが自らの身の回りだけの利害だけではなく、全体的な利害に責任を負うべきことが重要であることがわかる。しかし同時に、そのような全体的な利害への配慮は日々疎んじられてしまうことも本書はわれわれに教えているのだ。

服従の心理

服従の心理

フリードマン悪玉論

 赤間さんところで土曜の朝日新聞で経済思想関係の記事があったことを知り、ちょっと読んでみた。
http://d.hatena.ne.jp/akamac/20090207/1234016184

折しも,藤生京子「古典の思想家 再注目 世界不況の経済学」(朝日新聞,2009年2月7日付)の記事があった。危機の時代を迎え,スミス,ケインズハイエクシュンペーターガルブレイスなど近現代の「経済学・経済思想の泰斗」が引っ張りだこで,「遠ざけられがちだった古典」が注目されている,という。スミス,ケインズハイエクの写真を載せ,堂目さん,間宮さん,稲葉さんらの談話などを引いて,「公共政策と個人の生活をつなぐ回路が,人間社会を,深く多角的に洞察する古典の知見から見つかるかもしれない」と結んでいる。

 元記事http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200902070091.htmlもここで読めるようだ。

 ところでこの記事にもあるが

新自由主義の元凶として批判されるフリードマン(1912〜2006)の『資本主義と自由』も、「実際のところどうなのかという興味」(担当編集者)からか、版を重ねている

 僕は実はいまのこの危機こそフリードマンの成果を活かすべきときはないと思っている。というか、例えば海外のブログでの生産的な論争の背景(最近でもマンキュー対クルーグマン、バロー対クルーグマン、ルーカス対クルーグマンなどなど)には、かならずフリードマンの理論的成果をどのように解釈しているかが決定的にかかわっている。

 政策ベースでも、バーナンキFRB、そしてオバマ政権で経済問題で要所を締めているクリスチャン・ローマーもフリードマン大恐慌分析の影響にあるといっていい。

 さらに日本でもベストセラーになった『ヤバい経済学』もまさにフリードマンが始めたシカゴ学派の価格理論の流れにどっぷり使ったものだ。日本の評者や読者の99%以上はそのことに気がつかないが、この本はフリードマンの遺産の上にある。

 フリードマンの遺産を積極的に評価し、その著作を今にいかす古典として読まないではまともな経済論議はできないか、できても浅いものでしかないだろう。

 しかし記事にもあるが、日本ではフリードマンは「新自由主義」あるいは「市場原理主義」の代表として、いまやほとんど「悪」の象徴である 苦笑。これはまさに日本の論壇の低レベルを示すものでしかない(まあ、僕のように院生時代にトービン、オーカン、スティグリッツの著作を愛読した人間がこのようなフリードマン再評価をいわなければいけないほどの低レベルといいかえてもいいだろう)。

 実は数日前に富柏村日剰 香港日記さんからメールをいただいて、以下のことを知った。まさにいまの論壇のフリードマン悪玉論の雰囲気を伝えて余りある。

http://d.hatena.ne.jp/fookpaktsuen/20090202#

これについて偶然、TBSラジオの「アクセス」で今夜隔週で出演の田中康夫氏のコメントをPodcastで聞く。田中康夫ちやんはこの西部&苅部対談を取り上げ、康夫氏は西部氏が自分と(主張は)同じくハイエク自由主義が間違つてゐたのではなくて……と西部氏がハイエクを語つたことを取り上げ、そこから西部氏も自分(康夫氏)も

ハイエク自由主義が間違つてゐたのではなくて、ミルトン=フリードマンの暴走する弱肉強食の新自由主義が間違つてゐたのであつて、ハイエクが述べてゐたことは寧ろ……

と語り、思ひつきりのフリードマン悪者論。田中秀臣氏の指摘を思ひ出す。内藤克人、宇沢弘文といつた経済学者がフリードマンをきちんと理解せず、ただ誤解と印象でネガティブに取り上げてゐることを指摘する秀臣氏。康夫氏のこれもフリードマンを語るのではなく他を語る際に悪しき例としてのみフリードマンを用ゐる。なぜフリードマンは死後もこんなに悪者扱ひされるのか


 この間、ある講演会によばれて、そこでかって日本を代表した理論経済学者の友人という方が、僕のフリードマン解釈に関連して聞いたことがあった。その日本を代表した理論経済学者は、フリードマンが死んだことを聞いたときに奥さんと一緒に抱き合って喜んだという。それが本当かどうかは知りえないが、僕には心がめちゃめちゃ寒くなる証言であり、その講演会はもっとも後味の悪いものだった。

 最後に以前、このブログでも引用したが、フリードマンたちの大恐慌期の政策観を紹介しておこう。

シカゴ大学は別でしたが、多くの伝統的な数量説の信奉者たちが、きまってとりあげ、アメリカのみならず世界各国の経済学課程で、必ず持ち出された大不況についての説明は「先行したブームの当然の帰結」であり、それが「ああまで厳しくなってしまったのは、物価や賃金の暴落を防ぎ、企業のゆきづまりを避けようとして、当局がやっきになっていろいろな政策を行ったからだ」というものでした。彼らは、大不況が起こったのは、金融当局が「恐慌」前にインフレ政策を取ってきたからであり、大不況が不必要に長びいたのは、「恐慌」後も、金融緩和政策が取り続けられたからであると考えていました。彼らが唯一の健全な政策と主張したのは、不況をそのまま進行させ金融コストをさげ、弱体で不健全な企業を淘汰してしまうというものでした。

 ですから、ケインズの不況に対する考え方や、財政赤字によって不況を克服する方策が、はるかに明るく苦痛の少ないやり方だとして熱心な受け取り方をされたのはむしろ当然だったといえるでしょう。しかし、ナイト、ヴァイナー、サイモンズ、ミンツなどの諸教授の下で研究していた私たちシカゴ大学の仲間たちに取っては、ケインズから得るものは、ほとんどありませんでした。私たちの先生方は、不況の間中一貫して、銀行がつぶれ、企業が破産するのを座視しているとして、金融当局をするどく非難しました。非難は、研究会の討議、一般向けのパンフレット、そのほかのあらゆる手段を用いて行われました。彼らは、連邦準備制度公開市場操作を拡大し、政府の金融力を高め、銀行の流動性を増加することを主張し、同時に政府がデフレ抑制のために赤字予算を編成することを事あるごとに要求しました」(『わが夫ミルトン・フリードマン』邦訳15-6頁)。