CYZO 2009/01号。表紙は二人組のグラドル 山形道場 最終回

今月の喝:金融危機の慌てた対応

(『CYZO』2009 年 1 月)

山形浩生

要約: 金融危機は、なぜ起こった、二度とこういうことがないような制度設計をとはいうが、どうやったって予想外の不況は起こるんだし、百年に一度くらいしかこんなことが起きないのであればなまじいじらないほうがいいかもしれない。



 まだ金融危機の余波は続いている、というよりも、いまが余波なのか、それとも本波がまだ続いているのかさえだれもはっきりとは言えない今日この頃。ぼくはここ二週間ほど、メコン川のほとりで沈む夕日を眺めつつビールなどを飲んでいるので、この話がどうなっているのか実はあまり見ていないのだ。でも、日本を発つ前のときには、目先のつぶれそうな企業をどう救済するかという問題に加えて、再発防止にはどうしたらいいか、というような議論が山ほど行われていた。こんな事態が二度と起こらないような制度作りをしなくてはいけない、というような。

 もちろん、いま起きていることの影響の深さを見れば、こうした事態が二度と起こらないにこしたことはないだろう。にもかかわらず……二度と起こらないなんてことがあり得るとは、少なくともいまはだれも思っていないはずだ。どう対策をしようとも、ぼくたちの予想していない事態は起こる。どうがんばっても、すべてを見通すことはできない。今回、どんな対策をしようとも、かならず予想外のことは起こる。アフリカの一部が奇跡の成長をとげて世界経済が回復したと思ったらいきなり内戦が勃発して大暴落とか。

 先日訳し終わった本に、アメリカの大停電の話が出てくる。停電が起こるたびに、二度と起こらないようにしなくては、という決意表明が行われるし、前回のその決意表明が実現されなかったことで、糾弾合戦が行われる。

 でも……逆に考えたほうがいいんじゃないのかな、とその本は述べる。大規模停電が起こるのは二十年に一度くらい。確かにそのときはコストはかかる。なくせればすばらしい。でも、二十年も何も起こらないくらいのシステムができているんなら、それで十分では? 無理してあれこれいじくれば、そのためのコストが上がる。それが一回の大停電のコストより低いかどうか、わかったもんじゃない。下手にいじるよりそのままにしておいて、二十年に一度の停電をがまんしたほうがいいのでは?

 金融危機についても、たぶんこれと同じ理屈がなりたつはずだ。いまの危機はひどいものだ。百年に一度の大危機だと言われる。でも、それは逆に、こんな危機は百年たたないと起こらないくらい堅牢なシステムでもあったということだ。今回切り抜ければ、もう今世紀いっぱいは大丈夫だろう。だったら、金融システム再編とか新しい金融制度を、なんてことを主張する必要はあるのか? いまだけ切り抜けて、何事もなかったように元通りに動き続ければよいのでは? 元通りといっても、こんなことがあったあとでは、市場の参加者たちはだまっていても気をつけるべきところは気をつけるだろうし、前車の轍を踏むことも当分はあるまい。めったにないことのために制度を重くして規制をやたらにつけるのは、そんなにいいことだろうか?

 そもそも投資家が使っている各種の割引率は、一応はリスク折り込み済みの割引率なんじゃなかったっけ? 市場が落ちる事態まである程度は考えて、それにある程度は対応できるものだったはずなんだけど。もちろん、今回みたいにあらゆるものが意外なところで結びついてしまっていて、こっちがダメになったらあっちに頼ろうと思っていたバックアップまで次々に倒れてしまったという事態までは織り込んでいなかったかもしれない。でも、これからは折り込んでみたら? かのフラクタル幾何学のマンデルブロは、市場の波は理論的に考えられているような、大きいのから小さいのまできれいにそろって出てくるのではなく、非常に安定した小規模な波と、そこから完全に離れたでかいショックが組み合わさっているのだと論じ、それに対処する割引率設定についても述べている。実はそんな対応をみんなが自主的にすれば、問題のかなりの部分は長期的になんとかなってしまうような気もしなくもないのだけれど。

近況;ラオスにきておりますが、平和でよいところでございます。本誌が出る頃はエチオピアで年末。みなさま、よいお年をお迎えくださいな。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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