バブルがはじけると激しい不況になるのはなぜか

 田中秀臣さんのブログによると、「小島寛之さんだっていま総叩きの刑wですが、実物はふつうのおっさんですよ」ということだが、総叩きだったのか、知らなかった・・・。で、ちょっと検索をかけてみたんだけど、「総」というほど国内的にアグリゲイトされた量でもなさそうだし、笑い、しかも普段ぼくが参照してないブログみたいだったので、スルーすることにした。いうまでもないが、もちろんそれらのブログは、たくさんの人にとってすごく有益で面白いものであるに違いないのだろう。でも、残念ながらぼく個人には有益なものではなさそうなのでぼくは読んでない。にしても、確かに田中さんには一度お会いしているので、「ふつうのおっさん」というのは、その通りだし、ここで「アイドル狂いのエロオヤジ」とか書かれないでよかった。(ほんとはそう書かれるのをちょっと期待してたりして)。経済系のブログでは、何人かの人は、政治的プロパガンダやジャーナリスティックな言論に用いているようだけど、ぼくはこのブログはそういう風には使うつもりはない。ぼくは、ここまであまりに遠回りしてきた分、研究業績を早くあげなきゃならない上、もちまえの頭の悪さで思ったように論文を量産できないので、学問上の精力はアカデミック・ジャーナルに全投入しなきゃならない悲しい身の上にあるため、ブログをそういうツールにはできないのだ。だから、ぼくはブログで、基本的にテキヤをやっていくつもりなのだ。つまり、本や理論や学説などを紹介しながら、前説や口上で楽しんでもらい、ぼくの著作に関心をもっていただき、あわよくば、ご購入いただければ、と思っている。もちろん、「楽しくないし、不快」という人もいるのだろうけど、それはぼくの文章技術の限界だから、いたしかたない。ちなみに、稲葉さん、またまた誤読というか深読みというか妄想読みというか、そうなってますよ。ぼくは急激に退行する世界にて - hiroyukikojimaの日記で、「効率的賃金モデルが、不況の原因だ」などと一言も書いてないよ。これではただ、「外部労働市場がどうして存在するのか」ということに関する学説の一つとして紹介しただけ。前回も今回も、そういう妄想読みをされてしまう、というのは、ぼくの文章技術の問題もあるのだろうけど、そういう読み方をした人が多数でないことを考えると、稲葉さんとぼくの文章の相性に問題の一端があるのかもしれないな、と思う。
 さて、そんなことはどうでもよくて、急激に退行する世界にて - hiroyukikojimaの日記の続きだ。
ぼくがここでいいたかったのは、今、バブルがはじけて、世界が不況に向かっている(かもしれない)、そのメカニズムが自分にはわからない、というか、確信の持てるモデルが見あたらない、ということだ。それで、「完全に心理的な現象だけでこんなことが起きるとは思えない」と書いた。でも、読みようによっては、「完全に心理的な現象」としてそういうことが可能である、というモデルで、ぼくが数理的に納得できるものが存在することを、その直後に知った。それは、何度もぼくが取り上げてきた小野善康さんのモデルだ。知ったきっかけは、雑誌『世界』の座談会を読んだこと。

世界 2009年 01月号 [雑誌]

世界 2009年 01月号 [雑誌]

ここで、小野さんは、バブルのあとに激しい不況が来ることの理由を、モデルに即して解説している。それをきちんと書いたのは以下の本。
金融 (現代経済学入門)

金融 (現代経済学入門)

実は、この本はだいぶ昔に読んだんだけど、「不況均衡」を理解したら満足してしまって、恥ずかしながら、最終章「資産価格とバブル」の部分を読んでなかったのだ。(懺悔!)。ちなみに、この座談会では、小野さん一人浮いてしまっていて、ぜんぜん他の論者とかみあってない印象を受け、とっても共感を覚えた。小野さんほどの人がそうなのだから、ぼく程度のランクの経済学者ならネットで「総叩き」にあうのは何の不思議もないかもな。
 小野さんの理論を簡単にまとめると、「株式の流動性」というものを「貨幣」とともに主役に据えることで、バブル後の厳しい不況を説明する、ということだ。小野貨幣不況理論は、ぼくは著作『サイバー経済学』集英社新書でも『数学で考える』青土社でも詳しく解説したので、そちらを参照していただくのが一番なのだが、(あ、もちろん、前掲の小野さんの本が最良だが、経済学のトレーニングなしで読むのはちょっと辛いと思うので、まずぼくの本で助走してからのほうがと・・・商売商売)、懺悔ついでに、ここでも少しだけ解説することにしよう。
サイバー経済学 (集英社新書)

サイバー経済学 (集英社新書)

小野理論では、貨幣がある特別な「効能」を人々に与える、ということを前提としている。貨幣というのは、「モノを買うには貨幣を用いる」という単なる「社会の約束事」のような存在であって、1万円札には、「1万円のモノが買える」という以外何も効能がない、と考えるのが普通の考えだが、小野理論では、貨幣は、その所有者に所有しているだけで「流動性という効能」、つまり、「楽しみ」や「快楽」などを与える、と仮定しているのである。「流動性」というのは、不測の事態が起きたとき、即座にその額面のモノに「いつでも何にでも」変えることのできる性質のこと。1万円の債券は、1万円のモノに変えるには時間と手間がかかるが、1万円札は瞬時に1万円のモノと取り替えることができる、ということだ。ちなみにこれは、小野理論だけの仮定ではなく、ケインズのマクロ理論では多かれ少なかれ仮定されていることだ。
人々は、「今すぐ消費したいか」と「どのくらい上乗せすればあとで消費してもいいか」ということを慎重に比較した上で、所持金のどれだけを、利子を生み出す資産に変えるか、それとも貨幣のままで保有するか、それを決定する。そして残りは、「今の消費」にあてる、とする。それは、その配分が与える効能を熟慮して決定するわけだ。
このとき、健康的な経済状態なら、完全雇用が達成される。なぜなら、もしも(非自発的な)失業者が存在するなら、賃金や商品価格などが下落し、それが物価下降となるから、1円で買えるモノが多くなり、それは(実質)貨幣量の増加を意味するから、貨幣の増加がもたらす追加的な( 流動性という)効能は低まる。これが十分に低くなると、消費の喜びのほうが大きくなるので、人々が消費を始め、生産が増加することで、失業が解消されて完全雇用に向かうのである。
 しかし、このような「景気回復」の経路に乗っからない可能性を、小野さんは数理的に論証してみせたのだ。つまり、貨幣のもたらす追加的効能があまりに大きく、(正確にいうと、限界効用が正の下限を持つ、ということ)、いくら貨幣を保有してもその効能が色あせないなら、それは消費のもたらす追加的な喜び(限界効用)を常に上回ってしまい、消費がある上限値に止まってしまって、それ以上増えなくなる。そのため本当ならもっと多くの消費財の生産のために雇われるはずの労働者がいつまでも失業することになる。これが小野不況均衡である。(これは、デフレを伴うのが特徴的)。
 さて、小野さんは、前掲の『金融』の最終章で、株式にも貨幣と同じような「流動性の効能」がある、と考えた理論を組み立てた。つまり、株価がある程度高いなら、それは所有すること自体の喜び、快楽を与える、という仮定だと、ぼくは解釈した。または、こういう風に解釈してもいいかもしれない。株式市場が活発なら、モノを必要とするとき株を貨幣に変え、モノを買うのはそんなに大変ではなく、株がある程度のレベルで貨幣の代わりになる、ということである。(ちなみに、このような流動性を数量化する試みの論文をずっと前に書き、学会で小野さんに討論していただいたことがある。その理論のアイデアは、まあそんなにできのいいものではないけど、前掲の『サイバー経済学』集英社新書の最終章に収録してあるので参照されたら嬉しい) 。このような「株式の流動性」を仮定すれば、バブルの膨張が「合理的行動として」可能になることが証明される。テクニカルすぎることを覚悟して言えば、バブル的な価格高騰は、時間軸の上での予算制約(横断性条件)によって「不合理」として排除されてしまうのだが、「株式の流動性」を仮定するなら、排除されなくなるのである。ちなみに、小野さんは、このようにバブルを理解しているため、他の討論者と話がかみあっていない。他の討論者の論調は、バブルは、金融市場参加者の無軌道で無節操な行動から起きた、という「断罪的」なものだ。それに対して、小野さんは、「バブルはバブルの経路上では合理的」だから、そういう行動は悪だとは言えない、という主張をしている。
このことを踏まえた上で、小野さんは次のようなバブル膨張と崩壊と不況のシナリオを提示した。つまり、株価があるレベルに上昇すると、( 合理的に) バブルが生じ、それがまた大きな流動性を与える。このとき、貨幣のもたらす流動性と株式のもたらす流動性の効能の和は相当な水準になる。それが、高い消費を支える。ところが、株価がある程度の水準に達すると、人々はその流動性に疑いを持ち始め、そしてバブルは崩壊する。ここで、バブルの崩壊は、世界を「バブル発生前の元の普通の環境」に戻さない。忽然と消えた株式の流動性の大きさは相当のものであり、人々はそこで失った流動性を補おうと、過剰に貨幣の流動性を求め奔走する。それは、完全雇用均衡から不況均衡に移行するに十分なほどの貨幣への執着となる。それで、経済は突如、完全雇用均衡から不況均衡へとシフトしてしまう、というわけなのだ。
一言でまとめれば、バブルがはじけると不況がやってくるのは、株式の与えていた「流動性という快楽」が忽然と消え去るから、というわけだ。とても説得力のある説明にぼくには思える。これは、「流動性」という経済概念を経由しているが、「流動性」とはお化けのようなものであり、実体がよくわからない。このような実体のないものに原因すべてを委ねてしまっていいのかどうか、ぼくにはまだ納得しきれてはいない。多くの経済学者が一度はかかる「新古典派病」の洗礼から脱していないのだろう。
 『世界』の座談会では、小野さんは、金融政策では不況を食い止めるのは難しい、と発言している。それは、株価が半減近くになってしまったので、失われた資産総額は膨大であり、そのために消滅した「流動性」をカバーすることは中央銀行といえども不可能だから、という理由である。田中さんのブログなどを参照すると、サブプライム関連の不良債権額のGDP比が日本のバブル崩壊時に比べてそんなに大きなものでないので、平成不況のようにならないだろう、という見解があるようで、そうだったら幸いだと思うが、小野さんの理解だとそうではなさそうである。
 ちなみに、今解説したことは、ここ数日小野さんとメールで議論したことを土台にしたものであり、前掲の『金融』に書いてあるニュアンスとは若干違うところがあるのであしからず。
小野理論は、とても魅力的で、説得力のある理論なのだけれど、「貨幣の流動性」とか「株式の流動性」とかにミクロ的な基礎付けが十分でない。それでぼくの当面の課題は、このような基礎付けを実現することである。そのとっかかりのアイデアは、拙著『容疑者ケインズ』プレジデント社の最終章に書いてあるのだけど、このアイデアを論文にするための議論を、現在、意志決定理論の専門家の浅野さんと、それから御本家・小野さんと三人で行っているところだ。なんとか、数年のうちに、形にできたらいいな、そう願っている。まあ、少なくとも来年の抱負、のうち最大のものであろう。