P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

スティグリッツ:見返りを受け取ろう

正直、これまでスティグリッツの翻訳は避けてました。反資本主義でもなんでもない俺には、スティグリッツは結構微妙なところに来ているように思えましたから。クルーグマンは本人も言っているように資本主義のちょっとした修正、というかある意味ノスタルジーっぽい1950・60年代への回帰を言ってるだけですが、スティグリッツは別に社会主義を言ってるわけではないのは分かるにしても、まるで復活したジョン・K・ガルブレイズを見ているかのようなムズ痒い感じが最近はありましたので。でもまあこのイギリス・ガーディアン紙に載ったスティグリッツの文章を読んで、うーん、やっぱりこれまで色々と思うところがあったんだなぁ、と感じてしまいましたので訳してみます。
追記:はてブの方でも指摘されてますように、ステグリッツがクルーグマンと比べて急進的(これは社会主義的って意味だと思いますが)って事はないと思います。少なくともこの文章については全然そんな事はないと思います。ただ、上手く言葉に出来ないのですが(だったら書くなという事になるかもしれませんが)、なんかスティグリッツの論文ではない文章には何かもやもやしたものを感じてしまうのです。まあ、これは俺がリベラルなつもりだけど、実は保守的だったりする、というような事なのかもしれません。
見返りを受け取ろう ジョーゼフ・スティグリッツ 2008年12月5日
金融機関を守る事自体が目的なのではない。それは目的の為の手段だ。資金の流れ、それが大切なんだ。
我々は今や、皆、ケインジアン[ガーディアン紙が最近掲載したケインズルーズベルトへの1933年オープンレターへのリンク]だ。合衆国の右派ですら、躊躇なく熱狂的に、そしてかつては到底想像すら出来なかったほどの規模でケインズ陣営に参加している。
ケインズ[経済学]の伝統への何らかのつながりをこれまでも表明してきた者達にとって、これは勝利の時だ。これまで30年以上に渡って荒野の中にほうりだされ、ほとんど無視されてきたのだから。あるレベルにおいて、今、起こっている事は、イデオロギーと利益に対する理性と証拠の勝利なのだ。
経済理論は、長きに渡ってなぜ束縛されざる市場は自己修正を行わないのか、なぜ規制が必要なのか、なぜ経済の中において政府に重要な役目があるのかを説明してきた。しかし多くの人々、とくに金融市場で働く人々によって、ある種の「市場原理主義」が売り込まれてきた。その結果の誤った政策--これは他の人達と共に、バラクオバマ次期大統領の経済チームの何人かによっても売り込まれてきたものだ--がかつて、発展途上国に多大な被害をもたらした。そういう政策がアメリカや他の先進工業国にもまた被害を及ぼして、ようやく啓蒙の時がやってきたのだ。
ケインズは市場が自己修正を行わないというだけでなく、深刻な景気後退時には、金融政策が無力となりがち(翻訳)なのだと主張した。財政政策が必要なのだ。しかし全ての財政政策が同等なわけではない。今日のアメリカにおいては、特出した家計の負債と非常な不確実性ゆえ、減税は効果を発揮しそうにない(1990年代の日本においてそうであったように)。2月に行われたアメリカの減税のほとんど、でなくともその多くが貯蓄となった。
ブッシュ政権による多大な負債を背負ったアメリカは、費やす1ドルから最大の効果を発揮する刺激策を探さなければならない。技術とインフラ、とくに環境関連への過少投資と富裕層・貧困層の間の拡大する格差の負の遺産は、短期の支出と長期のビジョンの一致を要求している(翻訳)。
それは税と支出のプログラムの改革を必要とするだろう。貧困層への減税と失業保険の増加と共に富裕層への増税を行って、財政赤字を削減し不平等を減らす。イラク戦争への支出の削減と教育への支出増加は長期と短期の双方での産出を増やしつつ、財政赤字を削減する事ができる。
ケインズ流動性の罠について心配していた--それは金融当局が資金の供給を増やす事で経済活動のレベルを上げる事ができなくなる事態だ。貨幣供給の減少と銀行の倒産に関連して連銀が大恐慌の責を問われたことは良く知られているが、今回の景気後退でもそのように連銀が責められるのを避ける為、アメリカの連邦準備制度議長ベン・バーナンキは懸命の努力を行ってきた。
しかし、歴史と理論は慎重に読み込まれるべきた。金融機関を守る事それ自体は目的ではない。それは目的の為の手段なのだ。資金の流れ、それが重要だ。そして大恐慌時の銀行倒産が重要であった理由は、彼らが融資の査定に関わっていたからなのだ。彼らは資金の流れを維持する為に必要な情報の保管庫だったのだ。
しかしアメリカの金融システムは1930年代以来、ドラマチックに変化してきた。アメリカの大手銀行の多くは「貸し出し」ビジネスからは手を引いて、「やり取りビジネス」[moving business]を行っている。彼らは、資産の買取と、その再編成[repackaging]を行い、そしてそれを売っている。リスク評価や融資適格性評価における無能をさらしながら。数千億ドルがこの機能不全の金融機関を守る為に費やされてきた。近視眼的な行動と過度のリスク・テーキングを促進する間違ったインセンティブの構造を正す為には何も行われないまま。私的な利益と、社会的リターンがこれほどまでに異なっている時、私的利益の追求(強欲)が社会にたいしてこんな壊滅的な結果をもたらすのは、なにも不思議な事ではない。彼らの株主の利益すら、まともに守られていなかったのだ。
その間、銀行が行う事とみなされている事--お金の貸し出しと融資適格性の審査--を実際に行っている銀行の為にはほとんど何も行われてこなかった。
連邦政府は何兆ドルもの債務とリスクを背負い込んだ。金融システムを救う為には、財政政策の場合と同じく、「見返り」について考えなければならない。さもないと、8年の間に倍になってしまった財政赤字がさらに膨れ上がってしまう。
9月には、政府はそのお金を利子を付けて取り戻せるだろうと言われていた。救済が急増すると共に、これもまたリスク評価の誤りの一例である事がどんどんと明らかになってきた--ここ数年、ずっとそうであったように。バーナンキ・ポールソン救済の内容は、納税者に不利益なものであり、そしてなんと、その規模にも関わらず、貸し出しを再開させる役にはほとんど立っていないのだ。
新自由主義規制緩和の売り込みは一部のものの利益にはかなった。金融市場は資本市場の自由化の中で上手くやった。アメリカにそのリスキーな金融商品の売り込みと、そして世界中で投機に興じる事を可能にさせた事は、その企業達にはとてもよく奉仕した。その他のものに多大なコストを負わせて。
今日、新しいケインズ主義のドクトリンが同じ利益集団への奉仕の為に使われ、乱用される危険がある。10年前に規制緩和を売り込んでいた連中は教訓を学んだだろうか?それとも、何兆ドルもの救済の為には最低限必要な、上っ面の修正を主張するだけなのだろうか。心からの変化があったのか、それとも戦略の変化だけか?結局、今の状況では、ケインズ政策の追求こそが、市場原理主義の追求よりもずっと利益に叶うのだ!
10年前、アジア金融危機の時に、世界の金融構造の改革の必要性についての議論があったが、行われた事はほんのわずかだった。今の危機に適切な対応をするだけではなく、より安定的で、もっと繁栄し平等な世界経済をつくりだす為に必要な長期の改革を行う事が絶対の必要事項なのだ。