朝日新聞(08・9・28)「耕論」『「貯蓄から投資へ」?』

 
 新聞を読むのを読書とはいわないだろうが・・。
 最近、池田信夫氏のハイエク論や小幡積氏の資本主義論などを読んできた。市場とは何かとか、資本主義本とは何かという話題である。たまたま今日の朝日朝刊にそれにかかわるような話題が載っていた。「耕論」という欄の『「貯蓄から投資へ」?』である。現在、政府は証券優遇税制というのを推進しているのだそうで、その是非につき、三人のひとが自論を展開している。賛成派が勝間和代さんというひと。中立派が小宮一慶さんというひと、反対派(?)あるいは無関心派(?)が橋本治さんである。

 勝間和代氏の論:「貯蓄から投資へ」というのはリスクを自分でとれ!ということである。日本はもはや通常の産業分野では頭打ちである。これからは金融・情報大国化が道であるとすれば、資本に(つまりはお金に)働いてもらう必要がある。日本人は銀行に膨大な貯金をしているが、これは死に金である。生きたお金ではない。
 なぜ、日本人は貯蓄にむかうのか? それはリスクをとることで報われるという文化が根づいていないからである。資本主義の根幹は、リスクをとった人がリターンで報われる点にある。しかし終身雇用と年功序列で、リスクをとらなくてもある程度のリターンがえられたため、その文化が定着しなかった。
 銀行に集められた膨大な貯金は、生産性の低い企業に回され、その結果、不採算で市場から撤退すべきであった企業が生き残ってしまった。
 「小さい政府」は国民すべての面倒をみることなどできない。国民は自分の面倒は自分でみるようにしなかればならない。積極的に投資して、将来のリスクを回避するよう自分から行動すべきである。年金に頼るなどというお上まかせの姿勢ではだめである。
 サブプライム問題でアメリカが揺れ、それが日本にも波及しているが、長い目でみれば、これは変動幅の範囲であって、投資先と投資のタイミングを分散すれば、投資は中長期的にみれば、非常に高い確率でリターンが得られるというのが、金融の理論でもあり、実績でもある。しかし、そのためには自分で金融の勉強をしなければならない。投資で大きなリターンが得られれば、自分の将来の生き方の自由度が増す。投資をしないひとは、人生の権利を放棄しているようなものである。

 小宮一慶氏の論:投資自体を否定するものではないが、それを国が誘導したりするのはおかしい。日本では金融資産にしめる株の割合が8%で、米国の3割以上にくらべ低いが、アメリカで株の8割近くをもっているのはごく一握りの資産家である。多くの人は株と無縁である。今の日本人があまり株をもたないのは単純に株価が安いからであって、高度成長期やバブル期にはもっと多くの人が株をもっていた。ゆとりをもとめる余裕の資金を投資にまわすのはいいが、生活のための資金をリスクのある投資につぎこんではいけない。投資に投入されたお金は証券会社の中をいったりきたりしているので、企業にお金がいくわけではない。銀行から株にお金が大きく動くと、中小企業が銀行から金を借りられなくなる。
 株価の上昇は、産業が活性化の結果なのであるから、まず政府は産業の活性化のための対策をたてるべきである。
 今の金利は低すぎる。せめてもう1%くらいは上がってほしい。
 
 橋本治氏の論:サブプライムの損失が広がり、中国もこれからどうなるかわからないのに投資しているひとなんかいるの? 危なくない?
 現在、「実体経済」と「データ経済」が分離してしまっている。「データ経済」にかんして、金融工学などというとんでもない言葉が使われているが、《ここのお金をあそこに移動させるともうかる》ということである。そのデータの分析には高度の頭脳が必要である。それを駆使してお金を儲けたひとは、頭のいいひとであるという評価ももえられる。
 今、投資をしているひとは、定年退職で退職金をもらい年金もそこそこでるが将来が不安という年寄りと、働こうにも働き口がなく、なけなしの金を投資でふやそうという若者だけではないのか?
 昔は丁稚奉公からスタートして、暖簾分けで独立というような、ピラミッドをゆっくり登っていく階段があったが、今は一部のひとだけがエレベーターで急上昇していく。だから、働くということへの動機が失われようとしている。
 「データ経済」で勝ち組になっても、それは虚構の勝ちである。それがもしも空しいということになると、だれも将来の展望がもてなくなる。
 これからどうなるのか? それはわからないが、「データ経済」にいっても何にもならないだろう。
 投資の世界では損は許せないが、投資の世界の外では損が許容できる。働くことの意味づけを回復させることが重要である。働くというのは効率のいいことではない。損もある世界である。コストパフォーマンスが悪い道をあえてえらぶというのも、人間の選択なのではないか?
 
 勝間氏の意見は、むかしどこかで聞いたことがあるような気がする。もはや重厚長大産業の時代ではないにもかかわらず、そういう効率の悪い企業が倒産せず、有為の人材を抱えこんでいるために日本の産業構造転換がはかれない、という議論は「構造改革」論としてよくきいた。問題はそういう非効率産業が市場から退場したとして、それを代替する事業があるのだろうか?ということである。勝間氏のいう金融・情報大国というのは、つまるところ橋本氏のいう《ここのお金をあそこに移動させるともうかる》であるような気がする。それは結局、バブルなんだよ、というのが小幡氏の論であった。小幡氏によれば、資本主義とは、その実態はバブルそのものなのだから、勝間氏の論は一貫しているのではあるが。
 小宮氏のいう産業活性化に政府は関与すべきである、というのも、政府が関与することで産業が活性化できるのか? 政府というのはそのような力を持っているのか? ということに帰着するように思う。そのようなことはそもそもできることではないし、そこに投入されたお金はきわめて不効率にしか使われないから、政府は民間のことになるべくかかわるな、というのが「小さな政府」論であるように思う。
 勝間氏も小宮氏も、方向は違っても、産業活性化のために投資がいいか?貯蓄がいいかという議論である。それに対して、橋本氏がいうのは、これからの「実体経済」はずっとさえない状況が続いていき、成長だとか発展だとかはもはや望めない(極端な場合には後退さえしていくかもしれない)というものである。それにもかかわらず、われわれは実体経済の中で生きていくべきであるとしているように思う。そうすると当然、年金は破綻し、雇用状態は悪いままであろう。勝間氏はだからこそ、国にはそれを救済する力はもはやないとして、その中で各人が生き延びていくための方策として投資をせよ、というわけである。
 橋本氏のいっていうことは(おそらく)みんなで一緒に貧乏になっていきましょう!、ということなのだと思う。まことにさえない話ではある。たぶん、橋本氏には資本主義の精神がどこかで欠けているのだと思う。《資本主義の根幹は、リスクをとった人がリターンで報われる点にある》などといわれても、それはシュンペーターのいう企業家精神、ケインズのいうアニマル・スピリット(血気)の話であって、《ここのお金をあそこに移動させるともうかる》という話ではないよ、というように思う。
 少し前に、ピーク・オイルの話を読み、最近のオイルの高騰はそのせいであるのか、なるほどと思っていたのだが、どうも、金融市場から逃げだしたお金がそちらにむかっていたという要素も大きいらしい。オイルが次第に枯渇しつつあるというのは紛れもない事実である。しかし、その事実さえひとつのデータと化して、《ここのお金をあそこに移動させるともうかる》という論理を発動させるのである。
 どうもわたくしには資本主義の精神というのが根本から欠如しているらしい。医療というはなはだコストパフォーマンスが悪い世界、《丁稚奉公からスタートして、暖簾分けで独立》に近い世界で生きてきたためなのだろうか?
 医療の世界でなされていることにどれほど実体のあるものなのかは、大いに怪しいのだが、それでもそれは職人の世界であると思う。橋本治氏もイラストレーターから作家という職人の道を歩んできたひとである。
 氏のいっていることは、この世が職人の世界になるといいなあ、ということであるような気がする。職人には定年もなく、死ぬまで黙々と仕事を続けていく。とすれば、年金も関係ない。わたくしもそういう世界が好きなのだと思う。
 血気に乏しい植物的な人間が、どんどんとグローバル化していく資本主義の世界をこれから生きていくことは、厳しいなあ、とは思う。だが、日本にはそういうひともまた多いのではないかとも思う。地道にこつこつとやっていくしかないのであろう。