小林慶一郎氏、賃上げを要請

hamachan先生も取り上げておられますが、一昨日の日経新聞にRIETIの小林慶一郎上席研究員が「スタグフレーション懸念と経済政策」と題して論考を寄せておられます。つけられた見出しは「供給サイドの対応軸に 構造的か否か区別を 財政出動金利上昇の恐れ」となっています。
で、ポイントとして3点あげられています。

・不況下の物価高、マクロ政策対応は困難
財政出動、「非ケインズ効果」の考慮必要
労働市場制度改革や中小企業対策が重要
(平成20年9月17日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、以下同じ)

前半部分は要するに、日本経済の現状をもたらした原因は供給サイドのショックであり、長期的にはマクロの財政政策や金融政策でできることはなく、技術革新で対応していくしかないし、短期的にも限界がある、ということのようです。そこで注目されるのが3つめのポイントです。

 過去の石油ショックでは、マクロ的に見て、物価上昇とともに賃金も上昇していたので、家計は物価上昇に対応することができた。しかし、今回のケースでは賃金は上昇していない。賃金上昇がないということは、現在の日本経済で、国内総生産(GDP)ギャップが再び拡大している、すなわち需要不足になっていることを示すものでもある。企業に対して賃金上昇を促す政策(行政指導やミクロな労働市場規制など)は、日本経済の内需を強化し、景気を下支えするための有効な政策であるといえる。
 しかし、賃金上昇が製品価格の上昇に転嫁され、それがまた賃金を上昇させるようになると、インフレ加速のスパイラルに陥る。七〇年代の欧州はこれで高いインフレと高失業に悩まされた。これは真性のスタグフレーションである。インフレスパイラルを起こさないためには、労働分配率を上げて、家計の取り分を増やす方向に経済構造を変える必要がある。それには、ミクロの労働政策の課題として、労働者(中でも非正規雇用労働者)の使用者に対する賃金交渉力を高める制度改革に取り組むことが喫緊の課題であろう。

第一感として、シカゴ大学Ph.D.をとった人がここまで統制経済的なことを言うかねぇ、というのはありますが、それはそれとして、hamachan先生ご指摘のとおり、これは「経済産業大臣経団連に対して賃上げを要請したという話の理論編ということになるのでしょう」。具体的には、9月8日のエントリでご紹介した「新経済成長戦略」の改訂、ということになります。その概要が経産省のサイトにアップされています。
http://www.meti.go.jp/press/20080909005/20080917004-1.pdf
これをみると、やはり「「資源生産性競争」時代における経済産業構造の構築」という項目があって、「○「資源生産性」の抜本向上による経済構造の転換」「○イノベーション強化により世界市場に打って出る」「○原子力の内外での展開・太陽光等「資源大国」を実現」とあります。そして、その具体策として次の8点が掲げられているのですが…

・企業の資源生産性向上への集中投資による競争力強化
コンテナターミナルの24時間等物流改革
・グリーンITの加速化
・住宅用太陽光発電の設置支援
・大企業を中心とした賃上げへの働きかけ(購買力強化)
イノベーション創造機構による高付加価値化へのシフト
・資源国や新興国からの所得の還流・投資の呼び込み
・近海に眠る資源の開発強化(メタンハイドレート

なるほど、何度目をこすってみてもたしかに「大企業を中心とした賃上げへの働きかけ(購買力強化)」と書いてあります。まことに唐突というか、他の7項目とは明らかに異質で、いかにも政治的背景を感じさせます。賃上げをなんとか入れたい、しかし入れるところがない、仕方ないから「購買力強化」というエクスキューズをつけて適当なところに放り込んでおけ…というところでしょうか。
だいたい、内需を強化するのであれば、物価上昇の影響を受けやすい低所得者の所得の底上げが効果的なはずであり、であれば相対的に高い大企業の賃金をさらに上げるよりは、中小企業の賃金を上げたほうが効果的です。実際、小林氏自身もわざわざ「中でも非正規雇用労働者」と書いているくらいで、これも要するに比較的高賃金の正規雇用労働者より比較的低賃金の非正規の賃上げが重要だ、という意味でしょう。中小企業は賃上げが困難だろうとの配慮があるのかもしれませんが、一貫していません。
さて、小林氏は大企業は賃上げせよ、しかしデフレスパイラルを招く恐れがあるから価格転嫁はするな、労働分配率を上げよ、と主張されます。なるほど、これはありうる考え方でしょう。しかし、そのための手段が「労働者の企業に対する交渉力を高める制度改革」だけというのはいかにも物足りません(労働者の交渉力向上は、おそらくはそれはそれで重要かもしれませんが)。労働分配率を上げるには他への分配を減らさなければなりません。具体的には大きいところで内部留保=投資を減らすか、株主への分配=配当を減らすか、でしょう。経営的観点からみれば投資の減少は決して望ましいことではありません(投資効率の向上は重要な課題ですが)。となると、労働分配率を上昇させるには株主への分配を減らすことが必要になります。すなわち、「企業の投資家に対する交渉力を高める制度改革」がセットで必要になるはずです。実際、利益を再投資せずに配分してしまうなら、株主に配当するよりは、国外に流出せず、配当に較べれば消費にも比較的結びつきやすい賃上げに振り向けたほうが国民経済の観点からはマシである、という考え方もできるでしょう。ただ、この考え方だと賃上げの幅は支払能力の範囲内、生産性向上の範囲内ということになるので、経産省(というか二階大臣)の意図している(のではないかと思うのですが)「物価上昇をカバーする」賃上げにはならない可能性が高いわけではありますが…。
ちなみに、配当については業績悪化にもかかわらず増配する企業が多いという報道もありました。

 上場企業が厳しい収益環境のなか、二〇〇九年三月期も増配を続ける見通しだ。今期は七期ぶりの経常減益が見込まれるが、株主配分を重視する姿勢は維持し、年間配当総額は前期より四%増えそうだ。配当額を純利益で割って算出する配当性向は、利益水準の低下もあり前期の二九%から今期は三二%に上昇する。
 日本経済新聞社が、金融と新興三市場の上場企業を除く三月決算会社千八百十社を対象に、今期の年間配当予想額(計五兆九千三百十億円)を集計した。配当総額は〇七年三月期が前の期に比べ一九%増、前期も一五%増と二ケタ増が続いていた。今期も増加ペースは維持するものの伸び率は鈍化する。
 〇九年三月期の上場企業全体の経常利益は現時点で前期比八・六%減の見込みだが、ホンダのように減益見通しでも「個人など幅広い投資家の期待に応えたい」として増配する企業も多い。自社の株価のテコ入れを視野に、多くの企業が株主配分策を引き続き強化する方針だ。
(平成20年9月5日付日本経済新聞朝刊から)

これをみると、労働分配率上昇のためには、企業の株主に対する交渉力を上げることのほうが重要なのではないかと思えてきます。まあ、業績が悪化すれば放っておいても労働分配率は上がるとは思いますが(笑)
小林氏の論考に戻りますと、続けて中小企業対策についての記述になります。

 また、中小企業も顧客である大企業や大手小売業者との関係でコストの上昇を価格転嫁できずに収益が圧迫されている。買い手の価格支配力が強いモノプソニー(買い手独占)の弊害が、中小企業を苦しめているといえる。モノプソニーの弊害を正すのは、ミクロの独占禁止政策や中小企業政策の役割である。不当な買いたたきは、独占禁止当局や関係行政機関の監視などによって是正を図るべきだろう。また、短期的には、中小企業に対するセーフティーネット融資などを拡充し、資金繰りを支援することで、コスト高に対する中小企業の耐性を高める政策をとることが重要になってくる。

ははあ、大企業はインフレスパイラルを招くからコストアップを価格転嫁してはいけないが、中小企業が「コストの上昇を価格転嫁できずに収益が圧迫されている」のはなんとかしなければいかん、ということですね。まことに不可思議な理屈ですが、これが政治的には正しいのでしょう。もちろん、いわゆる下請けいじめや買い叩きはあってはならないことなので、それは是正されなければならないことは言うまでもありませんが。
ただ、現実問題としては企業は価格転嫁せず、中小企業は価格転嫁するということになると、これは当然大企業セクターでの利益が減少するということになります。そういう中で労働分配率を上げようとなると(放っておいても上がりますが)、ますます株主への分配は減少せざるを得ないわけで…。
経産省の「新経済成長戦略」の改訂をみると、基本的には技術革新により生産性を向上させて経済成長につなげるという正論で作られていて、その成長の成果が労働者へも配分されて内需が拡大する、という理屈はわかりやすいものです。そういう意味では、先に賃上げをするというのは順序が逆転しているわけで、それを無理やりに押し込んだところにそもそもの矛盾があるのでしょう。シカゴ学派の尖端をもって自任する(かどうか知りませんが)小林氏ではありますが、ここは組織のスポークスマンとしての役割を果たしたというところでしょうか。
なお、これは日経の編集に申し上げたいのですが、この内容でポイントに「労働市場制度改革」と書くのもいかがなものなのでしょうか。まあ、小林氏も「制度改革」という用語を使ってはいますが…。