GDPをめぐる論争(がこれから始まるのかもしれない)について

http://cruel.org/other/gdp.html
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080901/p1
 このままいけばぼくの疑問への答えも間接的に出てくるはずなのでここでぼくも矢野さんに倣って「俗事は任せる」、いや火の粉をこっちに飛ばさないでねと高みの見物を決め込みたいところだが、今の時点で気付いたことをメモ。


*おそらくは「前提」についての考え方がどうにもならないほどmojimoji氏(本名存じあげてるけどとりあえず)と山形氏(そしてぼく)との間では食い違っている。
 山形氏の考えるところでは、少なくとも短期的には潜在GDP、社会の生産力水準はどうしようもない所与であり、その前提の下でできる範囲のことをしよう、ということになる。できる範囲のこと、とは、まずはその完全雇用(マクロ政策目標)であり、その上でその再分配等々(ミクロ政策目標)ということになる。
 mojimoji氏の考えることろではこれと逆に、まあロールズ=ドゥウォーキン的というか、まずは社会的公平を実現しうる財消費パッケージの保障、という政策目標を設定する。こちらの方がすべての前提であり、その政策目標の実現と折り合う範囲での、社会的生産の極大が目指され、その範囲でならば不平等も許容される、という感じなのだろう。(あともうちょっと温和な「仮説的補償原理」の話も混じっているようだが、基調としてはロールズ主義に近いだろう。)
 一見したところもちろん山形氏の方が身も蓋もなく現実的で常識的だが、ここであえてmojimoji(そしてロールズ?)の弁護をするとしたら「ここで想定されている目標も必ずしも現実に全然立脚していないわけではなく、満たされるべきはとりあえず現に生きている人間のニーズに限定されており、存在したかもしれなかったが存在してはいない人間のそれまでは含んでいない、という程度には現実的だ」という感じか。あるいは「世界には現にこれだけの人間が存在しているのだから、そのニーズを満たすだけの資源がどこかにあるはずだ」という判断も潜在しているかもしれない。
 そこから先の話は、まあ何となく先が見えそうな気もするが、とりあえずお二人にお任せしたい。


*個人的にこのところ考えているのは、「ごまかし」「やり過ごし」「なあなあ」の効用である。先ほど山形氏の考え方とmojimoji氏の考え方とをあえて尖鋭に対立させた。もちろんそれらは理屈の上では相いれない。しかし政策実践の上では必ずしもそうではないのではないか、と思う。
 ロールズ=ドゥウォーキン的路線は大層ラディカルなものであり、現実の福祉国家はそれに比べるとひどく温和な代物である。さてそれよりも温和な路線として、ベヴァリッジ主義とでもいうべきか、一昔前の福祉国家主義、ハイエクフリードマンでさえ肯定した、最低ライン主義、「ナショナル・ミニマム」保障の考え方がある。ロールズ主義では「最も不利な人の状況が可能な限りよくなるようにせよ」であるのに対して、ベヴァリッジ主義では「最も不利な人の状況にも最低限の保障をせよ」であり、そこで保障される生活水準はおそらくはより低くなり、再分配の程度もより温和で不徹底となる。
 しかしながら、それでも理論的にいえば、ベヴァリッジ主義もまたそれを徹底すれば山形路線と根底から対立するものでありうる(現実のベヴァリッジの政策構想が、最低所得保障とケインズ的マクロ政策の組み合わせだったことには目をつぶる)。つまり、この最低所得保障を最優先の政策目標に設定したうえで、初めてマクロ政策その他について考える、という政策体系を考えるならば、その具体的な成果においてはともかく、その発想法においては
ロールズ主義と基本的には変わることはない。
 だがおそらく、理論的にはロールズ主義と同様、山形路線と根底的に対立するはずのベヴァリッジ主義は、実際にはそれほど大きなコンフリクトを引き起こさないだろう。なぜか? 「ごまかし」が利く可能性がはるかに高いからだ。たとえば、世論に向けてのレトリックの上では、あくまでも「最低所得保障の最優先」をとなえながら、現実の経済政策実践の上ではあくまでも完全雇用、経済成長を最優先し、おこぼれを福祉に回す、というやりかたをとる、という姑息なやり方(あるいは、「最低所得保障の最優先」程度のささやかな政策目標であれば、経済政策全般に対する制約がそれほど大きくならずにすむかもしれない、でもよい)が通用する可能性が、ロールズ主義の場合よりはるかに高いからだ。
 こういう「ごまかし」の効用は、もう少しまじめに考えてもよいのではないか。経営学の方でも、意思決定における「ゴミ箱モデル」とか、あるいは「やり過ごし」の効用とかについての議論があるわけだし。
 そうすると山形路線は「ごまかし」の余地のある社会をつくるために必要で、ロールズ路線は、その「ごまかし」の余地をうまく活用するために、かつそれが「ごまかし」であることをごまかすために必要だ、という風にきれいにまとまる。いやもちろんきれいでも何でもないけれど。