松尾匡『「はだかの王様」の経済学』

 お待たせ、ようやく読了。え! お前、祭りまで仕切りながらまだ読んでなかったのかよw といわれそうですが、前にも書きましたが、ええ、読んでないで祭りにだけ便乗しました。おまけに松尾さんが頻繁に注記をホームページで書くもんですからそれで読んだ気になってしまい幾年(いや幾日)。

 ところがお仕事のために鈴木謙介氏らの論説を読んでてこれはちゃんと読まないとまずい、と決心したわけです。たとえば別ブログhttp://blog.goo.ne.jp/reflation2008/e/e2e5b5ceea1030512b3ac94e93cc7f79でふれている、鈴木氏の秋葉原事件についてのふたつの論稿や、また彼が依拠している大澤氏らの疎外論を読むと、松尾匡疎外論はかなり楽観的な色彩が強いかな、という気がします。

 松尾さんの疎外論の定式は「依存関係+ばらばら=疎外」でしたよね。この「ばらばら」はたとえば分業などのお互いのニーズや情報を共有できない状態によって表現されていたと思います。

 その上で、この「ばらばら」を解消する方向で、松尾さんの本では、たとえば「すなわち、依存関係を縮小しなくても人々が合意可能になる条件は、19世紀では機械化がもたらしている単純労働化でしたが、今日では、発達した情報通信手段でお互いにつながりあうという方法もあるのだというわけです」(264頁)。そしてこの「方法」で、「疎外なき個々人の意識的合意でコントロールする取り組み」を行おうよ、というのが松尾的取り組みの方向性かな、と理解しています。

 ところが、鈴木的疎外論は、この「今日では、発達した情報通信手段でお互いにつながりあうという方法」自体が、たとえば具体的にはネットの空間でもいいわけですが、松尾さんの以下の図における「貨幣」の場にネットという「虚構のコミュニケーション」が「外化」しているといえましょう。

 しかもこれは僕も上の図をもらいに山形さんのホームページを覗いて見るまで忘れてましたが、秋葉原事件の犯人についてもこの図で説明できてしまう、という記述がありました(http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html)。まさにそれを実行したのが、鈴木謙介氏の論説なのかもしれません。

 鈴木氏はそのネット=「虚構のコミュニケーション」が「外化」によって(モテ/非モテの虚構が虚構ならぬ本物としてみえるので)、加藤容疑者の「非モテ」は、すべて「うまくいかないのは全部俺のせい」という自己責任化で正当化されとしています(下の図の「みじめ」に当たります)。これは松尾さんの論もそうですが、自己責任論や選択の自由とか利己的な行動とかがすべて抑圧の一形態である、という、まあ一種の新古典派批判wに簡単につながりそうです(もっとも松尾さんはさすがにそんな安易なことはしませんが、それを実際にしているのが大澤氏や安冨氏らでしょう)。

 以下の図も山形さんの図表からのパクリ。

 松尾さんの疎外論の組み立てだと、上記の「疎外」がまずいんじゃないの、という判断に結び付くのは、いわゆる「個々人の生身の都合を離れる」ことにあるからです。でもこの「個々人の生身の都合」とはなんでしょうか? もしすべてが疎外の図式で説明されてしまうとすれば、「個々人の生身の都合」も一つの「みじめ」な姿とどう差別できるのでしょうか?

 ちょっと松尾さんの疎外の公式をもってくると「依存関係+ばらばら=疎外」だけでなく、鈴木論説を読むと「依存関係+つながりあい=疎外」という可能性までも疎外論は含んでしまう。そうなると松尾さんの解決の方向性は、疎外論の中でどこに求めればいいんでしょうか? まあ、僕は疎外論は、なんでもかんでも疎外になってしまう言葉は悪いですインチキ臭い側面が強くあると思っています。そして実際に松尾さん的な解決も疎外の一形態でしかないかもしれない、ということがいいたいわけです。そしてそれは疎外論自体が思考の方法としてダメだからではないでしょうか?

 それとこれはいま書いたこととどう関係するのかまだよくわかりませんが、アソシエーションの社会において、加藤容疑者のような人物がいたとする。彼を救済するために彼の「ニーズ」をくみとり、救いの手をさしのべるとする。しかしこれは鈴木謙介氏がまた書いていることですが、その救いの手に対して、加藤的人物が「それは本当の愛なのか」と執拗に問いかけ、その問いかけに相手が根負けしたとき、「それみろ、やっぱりにせものじゃないか」と相手を罵倒していき誰からも相手にされなくなるケース。これを鈴木氏は「それは自己責任とはまったく異なる別水準で彼自身に生じた、哀しみの連鎖だ」と書いてます。これも僕の考えでは、疎外の新しい図式「依存関係+つながりあい=疎外」で解釈できてしまいそうです。

 だから松尾さんが祭りの最終部で語った

:「疎外」と「葛藤」の線引きの問題についても、上に書いたことからおわかりいただけると思います。自分ではどうにもできない観念のせいで本人が苦しんでいるのなら、それはもう「疎外」と呼んでいいのです。それを人に認めてもらえるかどうかはまた別ですが。その際、「俺は苦しいんだーッ」と当事者性の迫力で押し通すのか、もっとみんなにとって良くなる方法を緻密に考案して提案するかは戦術の問題で、ともかく提起するのは自由だと思います。それを無理矢理押しつけることは、また新たな疎外をもたらすことになるので、それはやめましょうというだけです。:

 無理やり押し付けなくても押し付けてもすべて「疎外」になってしまうことになり、個々の生身とか当事者性とかもすべて実は「外化」でしかなく、疎外になってしまうのではないでしょうか。「出口なし」というか疎外論のもつ「なんでも疎外性」とでもいうべきものがこの閉所恐怖症じみた議論をもたらしているのではないか、と僕は思うのです。

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学