米国とドル相場の長期的な動向を考えるうえで、1年に1度の重要な統計データが6月27日に発表された。商務省が発表する米国の対外資産・負債残高である。
「対外資産」とは、米国の官民が海外に保有する直接投資、株式投資、債券投資、貸付残高などの総計であり、「対外負債」とは海外の官民が米国に保有する同様の資産(米国の側からは負債)の総計である。2007年末の対外資産は17兆6000億ドル、対外負債は20兆ドル、差し引き2兆4000億ドルのネット負債と発表された。2006年末のネット負債は2兆2000億ドル(改訂前2兆5000億ドル)で、1年間で2160億ドル増加した。
この数字を見て「あれ、なんだか変だぞ?」と思ったら、あなたは相当な経済通だ。米国の2007年の経常収支赤字は約7300億ドルである。従って、ほかの条件が同じなら、対外ネット負債は2006年から2007年にかけて経常収支赤字と同額増えて、3兆ドル近くになるはずだ。ところが、実際には2160億ドルしか増えていない。これはどういうカラクリだろうか。
年間所得1000万円の世帯が、年間1100万円支出する生活をすれば、100万円はなんらかの借金となる。この状態を毎年続ければ、利息の支払いも加わるので、10年未満で借金は年間所得と同じ1000万円に積み上がるはずだ。年間所得1000万円の人なら、最初の100万円は無担保で喜んで貸す金融機関がいくらでもいる。次の年の100万円も借りられるだろう。しかし借金が年間所得と同じ1000万円まで積み上がったら、無担保ではもう誰も貸さない。
「米国没落論」が意味する悪夢のシナリオ
「米国も同じだ。このまま対外ネット負債の増加が続けば、海外投資家がこれ以上はドル資産に投資したくない、貸したくないという限界にぶつかる。海外投資家がドル投資を減らせば、ドル相場の暴落と米国の株式・債券市場の暴落の悪循環が起こり、ドル帝国崩壊の日が到来するだろう。いや、それは既に始まっている」
これが米国没落論者の描く典型的なシナリオである。
しかし、万一そのような事態になれば、暴落するのは米国の資本市場だけではない。仮に海外投資家が数兆ドルの規模で資金を米国から引き揚げ、米国の株や債券が急落すると何が起こるだろうか。米国の投資家は海外投資を同じ規模だけ引き揚げることになるだろう。そうすることによってしか、米国を巡るマネーフローは均衡できないからだ。
その結果、全世界的な資本市場の暴落が起こる。誰もが金融資産を投げ売って現金に殺到する信用恐慌が瞬時に世界中に広がるだろう。これが、各国間の投資が双方向で莫大に増え、どの国も深く相互依存関係にある現代のグローバル経済の現実である。
私も悪夢的なリスクシナリオとしてそうした可能性がゼロだとは言わない。ドル本位制が未来永劫であるはずもない。しかし、そうした単純な議論は米国金融帝国が構造的に備えているしたたかなカラクリに気がついていない、あるいはそれを過小評価している。その点をご説明しよう。
巨額の対外資産が生み出す利益
グラフをご覧いただきたい。経常収支赤字ほどに対外ネット負債が増えていないのは2007年だけではない。1980年を起点に(この時は対外ネット資産で3655億ドル)毎年の経常収支を累積させると、2007年時点ではネット負債残高は5兆6000億ドルになる(青い線)。ところが商務省発表のネット負債の実績値は2兆4000億ドルである。その差額はなんと3兆2000億ドル(約336兆円)である。富は無からは生まれない。3兆2000億ドルの富はどこから生まれたのか。米国金融帝国の搾取だろうか。
実は魔法でも搾取でもない。米国は世界最大の対外負債を有するが、その対外資産も世界最大である(前述、2007年末で17兆6000億ドル)。資産からはリターンが生まれ、負債からはコストが生じる。リターンとコストは、配当や利息などのインカムと、資産・負債の価格変動によるキャピタルゲイン(益)とロス(損)に分かれる。配当や利息の受け払いは、所得収支として経常収支に含まれる。従って、商務省データを信じる限り、3兆2000億ドルの落差は資産・負債(ドルベース)のキャピタルゲインとして生まれたのだ。
それでも名目のネット負債残高は増加を続けている。しかし、その絶対額を議論してもあまり意味がない。負債が持続可能な額かどうかは、世帯ならその所得規模と比較する必要がある。一国の場合は、便宜上GDP(国内総生産)の規模と比較して見るのが一般的だ。グラフの黄色い線が対外負債のGDP比率である。1986年にネット債務に転じ、2002年にネット負債比率は19.5%に達したが、その後は頭打ちとなって15~18%の範囲で横ばいに転じている。要するに経済規模との比較ではネット負債残高はここ数年は増え続けていない。これはネット負債の増加テンポ以上に名目GDPが増加していることを意味している。
では、なぜ米国の対外資産・負債は、これほどに巨額のキャピタルゲインを生んでいるのだろうか。それには2つの理由が考えられる。
(1)巨額の為替益を生むドル相場の下落
対外資産の50%は外貨建て、残り50%はドル建てと推計される。2007年の資産規模は17兆6000億ドルだ。従って、ドル相場の下落(=外貨相場の上昇)5%で4400億ドル、10%なら8800億ドルものドル換算ベースの資産価値の増加(為替益としてのキャピタルゲイン)が米国に生じる。一方、対外債務は約90%がドル建てと推計される。このためドル相場の下落による米国サイドの為替損は小さい(ほとんどが海外投資家の為替損となる)。
ちなみに、対外負債が自国通貨建てというのは基軸通貨国ならではの条件である。ほかの中小国の場合、対外負債は外貨(ドル、ユーロ、円など)になるので、対外負債の積み上がりと自国通貨の下落が同時に生じると、自国通貨換算で債務の膨張が起こり、通貨・金融危機に陥る危険が高くなる。
(2)リターンの高い直接投資と株式投資に傾斜
米国の対外資産に占める直接投資と株式投資の割合は48.2%と高く、一方負債に占める同比率は26.2%と低い。反対に負債に占める比率が高いのは海外政府による米国債なども含む債券投資であり、36.7%を占める。直接投資と株式投資は、価格変動リスクは高いものの、長期的なキャピタルゲインを生み、総合投資リターンで確定利回りの債券投資を上回る。
それでは米国の対外資産と負債の間にどの程度のリターン格差(年率)が生じているのだろうか。商務省のデータを基に1989~2006年の期間で計算すると、次の通り4.2%も資産リターンが負債コストより高い。
対外資産 (米国サイドのリターン) |
対外負債(海外 投資家サイドのリターン) |
|
インカムリターン | 6.0% | 4.5% |
キャピタルゲイン | 4.3% | 1.6% |
総合リターン | 10.3% | 6.1% |
リターン格差 | 4.2% | |
(商務省データに基づき、国際通貨研究所が算出) |
もちろん、だからと言って、米国の経常収支赤字がこのまま膨張を続けることができるわけではない。ところが、ドル相場の下落で既に赤字の縮小傾向が始まっている。経常収支赤字も経済の規模との比率で考える必要があり、やはり名目GDPに対する比率で見てみよう。
2006年はGDP比率で6%と過去最大の赤字となった。しかし2007年は5.3%に縮小した。ドル相場の下落による経常収支赤字縮小の効果は80年以降の平均では2年程度のタイムラグを伴って効いてくる。目先、原油価格の高騰が赤字拡大要因として、波乱要因であるが、年平均で2~5%程度のドル相場全般の下落が持続すれば、経常収支赤字の縮小は中期的に持続する。私の推計モデルによる予想では、ドル相場の下落が比較的穏やかでも、2010~2012年までにGDP比率で3%程度に縮小する公算が大きい。
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